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雪で電車が遅れただけなのに、私の一日までうまくいかなかった気がした朝

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予定が崩れた日、何もしていないのに自分を責めてしまった理由を考えてみた

雪の日

2026年1月22日。今朝、駅までの道がいつもより白くて、空気がきしむ音がした。吐いた息がマフラーの内側でぬるく溜まって、指先だけが別の世界みたいに冷たい。改札前の電光掲示板には「遅延」の文字が並んでいて、みんなの目が、同じ場所を見ているのに誰とも目が合わない。私はその輪郭だけをなぞるように、列の端に立っていた。

少し前から、強い寒波で交通が乱れているというニュースが続いている。飛行機が欠航したり、雪と風で便が止まったり。画面の向こうの話だと思っていたのに、今日はちゃんと私の足元まで来ていた。電車が来ないのは、私の小さな怠け心のせいじゃなくて、空の機嫌のせい。そうわかっているのに、胸の奥だけが「また私だけうまくいってない」みたいに沈む。

予定していたことは、たぶん大したことじゃない。午前中に買い物をして、午後は記事の下書きを進めて、夜は早めにお風呂に入って、ちゃんと寝る。ひとり暮らしの予定って、誰かと約束するみたいな重みがないから、崩れたところで誰にも怒られない。でも、だからこそ崩れると全部が「自己責任」みたいに見えてくる。誰にも迷惑をかけていないのに、私だけが自分の評価を下げていく。

ホームで待ちながら、私はスマホを開いた。遅延情報を確認して、天気予報を見て、それでも指が勝手にSNSを開く。タイムラインは、雪の写真とか、出社が地獄とか、楽しそうに鍋をしている人とか、なんだかみんな“ちゃんと”生きていた。私はただ、ただ待っているだけなのに、待っている間も「何かしていない自分」が責められている気がした。

こういうとき、私の中には二人いる。ひとりは「仕方ないよ、今日は雪なんだから」と言う。もうひとりは「雪の日に崩れる程度の予定を立てたのが甘い」と言う。後者の声は、いつも少しだけ上司っぽい。しかも、その上司はすごく私のことを知っている。昨日の夜に洗濯を回すつもりで回せなかったこと。冷凍庫の奥の霜だらけの食材を、見て見ぬふりしたこと。LINEの返信を先延ばしにしたこと。今日の遅延とは関係ないのに、遅延っていう言葉が、生活の「後回し」を全部引っ張り出してくる。

電車が来たとき、車内はいつもより静かだった。みんな、雪の日の音量で生きている。コートが擦れる音、足元の水滴、カバンのファスナー。私も吊り革を掴んで、窓の外の白っぽい景色をぼんやり見ていた。街が薄いフィルターをかけられて、いつもより“いい人”だけが映るみたいに見える。誰も怒っていない。誰も泣いていない。私の中だけが、なぜか忙しい。

それに気づくと、ちょっと恥ずかしくなる。雪の日に、電車が遅れる。そんなの当たり前。みんな同じ。なのに私は、同じ出来事を「自分だけの失敗」に変換するのが得意だ。たぶん私は、“遅れること”が怖いんじゃなくて、“遅れた自分を許してもらえない気がすること”が怖い。許してもらえない相手が誰かは、はっきりしない。会社の誰かでもないし、SNSの誰かでもない。もっと曖昧で、もっと根深い、「ちゃんとしていないと愛されない」みたいな感覚。

駅に着いて外に出た瞬間、風が顔に当たった。冷たいというより、注意されてるみたいな風だった。「ほら、しゃんとしなよ」って。私はそれに反発するみたいに、コンビニで温かいコーヒーを買った。カップの熱が手のひらに移ってくると、少しだけ自分が“回復”している気がした。こういう小さな回復を、私はいくつも抱えて生きている。誰にも見せないまま。

だけど回復って、いつも「ちゃんとするため」に使われる。温めて、整えて、立て直して、また走る。休むためじゃなくて、走り直すため。私はいつから、休むことを“遅れ”だと思うようになったんだろう。休むのは悪いことじゃない、って頭では知っているのに、身体の方が先に「ダメ」って判断する。アラームより早く目が覚めて、意味もなく冷蔵庫を開けて、洗ってないお皿の数で自分の機嫌を測る。ひとり暮らしの部屋って、私の心のスコアボードみたいだ。

予定が崩れたときに、いちばん崩れるもの

雪の日

“雪のせい”って言える出来事は、ある意味で優しい。だから今日は、私は自分に優しくできるはずだった。なのに実際は、優しさどころか、頭の中がずっと忙しかった。予定が崩れると、すぐに「取り戻さなきゃ」が始まる。遅れた分、早歩きして、早口で話して、夜更かししてでも帳尻を合わせる。そういう癖が、もう体に染みついている。

たぶん、取り戻したいのは時間じゃない。私が焦るのは、時間が足りないからじゃなくて、「ちゃんとしている自分」を見失いそうだから。予定通りに進めることで、自分の輪郭を保っている。予定が崩れると、その輪郭がふわっと溶ける。溶けた自分は、どこか頼りなくて、何者でもなくて、誰にも選ばれない気がしてしまう。

ひとり暮らしって、自由だ。誰にも干渉されないし、失敗しても笑ってくれる人がいなくても、逆に怒る人もいない。だけど、その自由の中で、私は時々「証明」を求めてしまう。今日もちゃんと生きました、っていう証明。体重計の数字、家計簿の記録、タスクのチェック。どれも自分のためのはずなのに、いつの間にか“誰かの目”を想定している。実在しない審査員のために、私はずっと提出物を作っている。

うまくいかない日にだけ出てくる、本当の声

帰宅して、玄関でブーツを脱いだ瞬間、足の裏がじんわり痛かった。たったそれだけで、「今日、頑張ってたんだな」と思ってしまうのが少し悔しい。頑張らなくてもいいはずなのに、頑張った証拠がないと安心できない。

キッチンでお湯を沸かして、インスタントのスープを作った。湯気が立って、窓が白く曇る。その曇りが、今日の私の頭の中みたいで、ちょっと笑ってしまった。何かを見ようとしても、はっきり見えない。だからといって、見ないわけにもいかない。

ニュースは、「雪で欠航が相次いだ」とか「強風で運休が出た」とか、原因と結果を短い言葉でまとめる。
でも私の生活は、そんなふうに整理されない。遅延のせいで買い物がずれた、予定がずれた、気分がずれた。その“ずれ”が、いつの間にか自分への不信感に変わっていく。予定が崩れた瞬間に、自分の価値まで一緒に崩したこと。遅れたのは電車なのに、「遅れてるのは私」って感じてしまったこと。

「うまくいかなかった」と言い切ってしまうと、そこで終わってしまう気がして、私はいつも抵抗する。反省して、改善して、次はこうしようって、すぐに“次”に逃げる。でも今日は、逃げる前に少しだけ立ち止まりたかった。雪の白さみたいに、答えを急がないで。

たとえば、今日は洗濯を回せなかったとしてもいい。返信が遅れてもいい。冷凍庫の霜を放置してもいい。小さな“できなかった”の上に、さらに「だから私はダメ」を積み上げないで済む日が、たぶん私には必要だ。必要だと思うのに、そう言うと負けたみたいで、またモヤっとする。自分の中の上司が、すぐに「甘え」って言いたがる。

でも、甘えってなんだろう。誰かに寄りかかること? それとも、自分を休ませること? 私は時々、休ませることすら“誰かの許可”がいる気がしてしまう。ひとり暮らしなのに、許可がいる。矛盾してるのに、現実にそう感じてしまう。

もし今日の私にできることがあるとしたら、たぶん「遅れた自分を、遅れたまま抱える」ことなのかもしれない。取り戻さなくていい。帳尻を合わせなくていい。今日の穴は、穴のままでいい。そう思おうとして、やっぱり怖くなる。穴が空いたままだと、明日がこぼれ落ちそうで。

それでも、こぼれ落ちるかどうかは、明日の私が決めればいい。今日の私は、今日の雪の中にいる。白くて、静かで、ちょっとだけ心細い。それだけで十分だと、言い切れないまま、スープを飲み干す。

窓の外はまだ明るいのに、空が早く夜の色を練習している。私は洗濯を回そうとして、結局回さないかもしれない。返信も、まだしないかもしれない。そんな自分を“ダメ”と呼ばない練習を、今日はうまくできないかもしれない。

それから、ふと考える。もし今日が、誰かと暮らしている日だったら、私はこの遅延をどう受け取っていただろう。玄関で「寒かったね」と言い合って、靴下の片方が濡れたことを笑って、温かいものを分け合って。そういう世界では、遅延は「出来事」で終わるのかもしれない。今の私は、出来事を“評価”に変えてしまう。誰も採点していないのに、自分で赤ペンを持っている。

本当は、今日はただ寒かっただけでいい。予定が崩れたのも、ちょっと不機嫌になったのも、全部まとめて「冬っぽい日だった」で片づけてしまいたい。でも片づけるのが怖い。片づけると、自分の中のモヤっとしたものが、見えないまま残ってしまいそうで。残ってしまうのが怖いのに、残らないと気づけないこともある気がして、そこでもまた揺れる。

私は今日、うまくいかなかった。それでも、うまくいかなかった日の私が、いちばん正直な顔をしている気もする。うまくいく日は、うまくやるための顔をしているから。うまくいかない日は、顔がほどけて、余計なものが落ちて、少しだけ“素”が出る。その素が好きかどうかは、まだ判断できない。ただ、見なかったことにしたくない気持ちだけがある。

雪の日は、何もかもが遅れる。私の心も、たぶん少しだけ。遅れているからこそ、見えるものがある気もするのに、それが何かはまだ言葉にならないまま、カップの底だけが冷えていく。

今日の私は、まだ答えに追いつけない。たぶん、それでいい。

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