いま「賃上げ」のニュースを見て、いちばん怖かったのは“置いていかれる感じ”だった

朝、玄関のドアを閉める直前に、部屋の中が妙に静かで、冷蔵庫のモーター音だけが「今日も生きるぞ」って小さく主張していた。
マフラーを巻く手つきが不器用で、鏡の前で一回ほどいて巻き直して、結局いつもの巻き方に落ち着く。そういう“戻り癖”って、生活にも心にもある気がして、ちょっとだけ苦笑いする。
駅までの道はいつもと同じなのに、足元だけはちゃんと忙しくて、私はその忙しさに乗っかって考えることを先延ばしにするタイプだ。
コンビニに寄ったのは、ただの「朝の保険」。仕事が始まる前に、何か温かいものをお腹に入れておけば、今日の自分が少しだけ優しくなる気がするから。
いつものカフェラテと、なんとなく手に取ったおにぎり。レジで合計金額を見た瞬間、私は心の中で小さく「え、また?」ってつぶやいた。大きい声じゃない、誰にも聞かせない、でも確かにある声。
100円単位の話なのに、積み重なると、生活ってじわじわ薄くなる。**わかる…**って、たぶん同世代の人なら一度は思ったことがあるはず。
支払いを終えて店を出て、スマホの通知をぼんやり眺めたら、ちょうど今日(1月27日)のニュースが流れてきた。
今年の春闘が事実上スタートした、経団連と連合のトップが会って、賃上げについて話し合いが始まる、みたいな内容。
それに関連して、連合は賃上げ「5%以上」を掲げている、という話も目に入る。
一方で、日銀が公表した“基調的なインフレ率を捕捉する3指標”が、2025年12月はそろって2%を下回った、という記事も並んでいた。
なんだろう、この並び。
「賃上げしてね」と「物価は落ち着いてきたよ」が、同じ画面の中で平然と同居している。
私の感覚としては、ぜんぜん落ち着いていないのに。体感と数字がずれてるとき、人はだいたい数字のほうに負ける、みたいな気がして、私はまた少しだけ黙る。
ひとつめ:お金の話を「品がない」と思い込んで、口を閉じてきた
電車の中で、私はスマホをそっとしまった。
ニュースを読んだ直後、なぜか胸がきゅっと縮む感じがして、画面を見続けるのが怖くなったから。怖いっていうのは、未来が不安とか、社会がどうとか、そういう大きい話だけじゃなくて、もっと個人的で、みっともない種類の怖さ。
“私の給料、これからどうなるんだろう。”
たったそれだけなのに、口に出すのは難しい。
だって、お金の話って、なんとなく「意地汚い」とか「品がない」とか、そういう空気で包まれてきた気がするし、私はそれを真面目に信じて育ってきた側だから。
職場でも、仲のいい人がいても、給与の話だけは避ける。ボーナスの額を聞くのも聞かれるのも、ちょっとした地雷みたいに思っていた。
でも今日、コンビニのレシートの数字と、春闘のニュースがつながって見えた瞬間、私は気づいてしまった。
お金の話を避けることって、上品さじゃなくて、ただの“諦めの習慣”かもしれない、って。
誰かが決めたルールに従って、黙って、笑って、やり過ごして、結果的に自分の生活だけが薄くなる。そんなの、ちょっと悔しい。
ふたつめ:「賃上げ」のニュースが、なぜか私を置いていくように感じた
職場に着いて、デスクに座って、パソコンを立ち上げる。
いつものルーティン。いつものメール。いつものチャット。
なのに、頭の片隅にさっきのニュースが居座っていて、私はずっと小さく落ち着かない。
春闘って、社会の行事みたいにニュースで聞いたことはあるけど、正直、自分の生活に直結している感覚が薄かった。
どこか遠い世界で、偉い人たちが交渉して、最終的に「今年は何%でした」って数字だけが降ってくる。
その数字が私の手取りにどう落ちるのか、会社の評価制度とどうつながるのか、わからないまま終わることも多い。
だから私は、勝手に思っていた。
賃上げって、声の大きい人か、うまく立ち回れる人か、選ばれた人のもの。
私はそこに含まれない。私は「まあ仕方ない」って言う役。
これ、ほんとに誰にも言ったことないけど、賃上げのニュースを見ると、ちょっとだけ嫉妬する。
「いいな」じゃなくて、「ずるいな」に近い、あまりきれいじゃない感情。
そして今日の本音は、もっとみっともなかった。
“賃上げ5%”って文字を見た瞬間、私は一瞬だけ、他人の人生が先に進んでいくのを見せられたみたいに感じてしまった。
自分は同じ場所に立っているのに、周りだけがエスカレーターで上に運ばれていく感じ。
置いていかれるのが怖いのに、置いていかれている事実を認めたくなくて、私は画面を閉じた。
こういうとき、人は“興味ないふり”がいちばん得意になる。
みっつめ:小さな出来事が、私の中の「交渉しない癖」をあぶり出した
今日の小さな出来事は、昼休みに起きた。
お昼を買いに外へ出たとき、同僚が「今度の春闘、どうなるんだろうね」って、軽いトーンで言った。
ほんとに軽く。天気の話をするみたいに。
私はそこで、笑って流すこともできたのに、なぜか喉の奥が熱くなって、言葉が一瞬だけつまった。
私がつまった理由は、たぶん二つある。
ひとつは、知らないことを知られるのが恥ずかしかったから。
もうひとつは、知りたいって言うのが怖かったから。
「知りたい」って言ったら、次は「じゃあ動こう」になる。
動くのは、疲れる。比べるのも、疲れる。
それでも、知りたい。
この矛盾が、私の中でずっとくすぶっていたんだと思う。
結局私は、完璧な返事なんてできなくて、「そうだね、物価もあるしね」って、無難な言葉を返した。
その瞬間、自分にちょっとだけがっかりした。
私はいつも“無難”の中に逃げて、あとで一人でモヤモヤして、モヤモヤを片づけるためにコンビニスイーツに頼って、また同じループをする。
美容でもダイエットでもない、もっと生活の根っこ。
「交渉しない癖」って、こういうところに出るのかもしれない。
でも、今日は違った。
午後、トイレの個室でこっそり給与明細のアプリを開いて、去年の同じ月と見比べた。
たった数分。たった数スクロール。
それだけなのに、私は少しだけ息がしやすくなった。
数字が増えているとか減っているとか、その結果よりも、「見た」という行動が、私の中の霧を薄くした感じがした。
ニュースでは、賃上げの目標として“5%以上”や、中小では“6%以上”、非正規では“7%”といった数字が掲げられている、という話もある。
こういう目標が現実になるかは、会社の状況にも業界にもよるし、賃上げ交渉は春に向けて山場を迎える、とも言われる。
それでも、「数字を眺める」ことと「自分の数字を見る」ことは、たぶん同じ種類の行為なんだと思った。
社会のニュースを“自分の生活”に引き寄せるって、こういう小ささでいいのかもしれない。
後半になって、私はもう一つ気づいた。
基調インフレ指標が2%を下回った、というニュースは、たぶん「だから安心だよ」という意味ではない。
電気代などの要因もあるし、私の買い物の体感は、今日も普通にじわじわ高い。
数字が落ち着いたとしても、心が落ち着くには時間差がある。
その時間差の中で、私は「自分の生活の声」を拾い続けないといけないんだろう。
誰かの指標が下がったからって、私の不安が勝手に下がるわけじゃない。
今日のささやかな変化は、たぶんこれ。
私は“お金の話をする”ことを、恥ずかしいことから、生活を守る作業に少しだけ言い換えられた。
いきなり誰かに相談できるほど強くはないし、職場で給与交渉なんて、まだ想像しただけで胃がきゅっとなる。
でも、まずは自分の数字を見る。ニュースの数字と、自分の生活の数字を並べてみる。
それだけで、置いていかれる怖さが、ほんの少しだけ「把握できる不安」に変わった気がする。
あと、もうひとつだけ、今日の違和感を正直に書くなら。
「賃上げ」って言葉がニュースで踊るほど、なぜか私たちは“個人の財布”の話をしづらくなる気がする。
社会全体の話になると急にきれいごとになって、「みんなで良くなろう」と言えるのに、目の前の自分の生活の話になると、途端に黙ってしまう。
この距離感が、私はずっと不思議だったし、たぶんこれからも簡単には埋まらない。
でも今日、同僚の一言でつまった喉の奥の熱さは、「私は本当は話したいんだ」っていうサインだったのかもしれない。
たとえば今度、信頼できる友だちとごはんを食べるとき、先に「最近、レシート見るのが怖い」って冗談っぽく言ってみようかな、って思った。
いきなり年収の話なんてしない。比較もしない。
ただ、生活がきゅっとする感じを共有するだけ。
それだけでも、私は少し救われる気がするし、相手も同じように救われるかもしれない。
“わかる”って、結論じゃなくて、途中の息継ぎみたいなものだから。
夜、帰宅して、コートを脱いで、部屋の電気をつけた瞬間、朝と同じ冷蔵庫の音がした。
私はその音を聞きながら、今日の自分の小さな行動を思い出して、ちょっとだけ笑った。
大きなことは何も変わっていない。
でも、変わっていない中で、私の視線だけが少し動いた。
明日、あなたは、ニュースの数字を見たときに、どんな“誰にも言わなかった本音”が浮かびますか。
それを、ひとつだけでいいから、自分の生活の中で拾ってあげられたら、今日の世界は少し違って見えるのかもしれない。




