仕事終わらない日ほどつらい理由。早く帰れると思った夜に崩れる「自分の時間」と働く毎日の違和感

朝から空気が少し軽かった。
三月って、まだ寒いくせに、ときどきだけ春の顔をしてくるから困る。厚手のコートを着るほどでもないけど、薄着で出るにはちょっと不安で、結局いつもの、いちばん無難な服を選んで家を出た。駅までの道で見かけたコンビニののぼりが、風にぱたぱた揺れていて、なんだか今日は少しだけ早く一日が終わる気がした。
根拠はない。けれど、大人になると、そういう何の根拠もない予感にすがりたくなる日がある。
職場に着いて、パソコンを立ち上げて、未読メールの件名をざっと見た時点では、たしかに今日はまだ、そこまでひどい日じゃなかった。
返事が必要なものはいくつかあったけれど、爆発しそうな案件はない。会議も予定通りなら長引かないはず。こういう朝、たまにある。だから油断する。
油断してしまう。
昼休みの少し前、隣の席の人が何気なく「今日は早く帰れそうですね」と言って、そのあと上司も、まるで明日の天気でも話すみたいな軽さで「今日はみんな、なるべく早めに上がろうか」と続けた。
ああ、もうだめだった。
その一言で、私はすっかり“早く帰れる日の自分”になってしまった。
仕事中なのに、頭のどこかで帰宅後の段取りを組み始める。
スーパーに寄って、半額になりそうなお惣菜をのぞいて、余裕があったら湯船もためようかな、洗濯物も今日のうちに畳めるかもしれない、ずっと後回しにしていたメッセージも返せるかもしれない、そんなふうに、本来まだ手に入っていない時間を、先に使い始めてしまう。
これ、誰にも言わないけれど、私は「今日は早く帰れる」という言葉そのものより、その言葉が連れてくる“ちゃんと暮らせる夜”を信用しているのだと思う。
早く帰れたら、部屋を少し整えられる。
早く帰れたら、コンビニのごはんじゃなくて、一応お皿に移した夕飯にできる。
早く帰れたら、ただ眠るだけの夜じゃなくて、自分の機嫌を少しは取り戻せる。
たぶん私は、退勤時間を待っているんじゃなくて、“自分の生活が自分のものに戻る感じ”を待っている。
「早く帰れる」の一言で、もう夜の予定まで信じてしまう
今日実際に起きた小さな出来事は、夕方の五時半ごろだった。
そろそろ本当に帰れるかもしれない、と思って、私は机の上のマグカップを流しに持っていった。空になったカップの底には、冷めきったコーヒーの跡が薄く残っていて、スポンジでこすりながら、帰ったら何を食べようかなと考えていた。
冷蔵庫に卵があったはずだから、簡単にオムライスもありかもしれない、でも面倒ならお味噌汁だけでも作れたら十分えらい、そんなことをぼんやり思いながら。
そのとき後ろから、「ごめん、これ今日中に確認だけお願いできる?」と声がした。
振り向いた瞬間、終わった、と思った。
別に大事件でもない。ありがちなことだし、理不尽と呼ぶほどでもない。確認と修正を数件やって、ちょっとやり取りが増えたら、一時間なんて簡単に溶ける。だから私は、笑って「大丈夫です」と言った。社会人の反射神経みたいな速度で、ものすごく自然に。
でも心の中では、ぜんぜん大丈夫じゃなかった。
今日こそ、今日くらいは、私の夜を私に返してよ、と思った。
口にしたら幼い人みたいだから言わないけれど、そういう本音って、たぶんみんな胸の奥に小さく飼っている。
“たった一時間”でしょ、と言われたらその通りなのに、その一時間のせいで崩れる気持ちがある。帰宅ラッシュの電車に乗ることより、夜ごはんが遅くなることより、「もう今日は自分のために何もできないな」と静かに確定する感じが、いちばんこたえる。
わかる……あの瞬間って、時計じゃなくて、生活そのものが遠のく。
私はたぶん今まで、「忙しいこと」そのものに疲れているんだと思っていた。
でも今日、少し違うのかもしれないと気づいた。疲れているのは、忙しさよりも、“期待を回収されること”なのかもしれない。帰れると思った。整えられると思った。今日だけは自分の夜をちゃんとやれると思った。その小さな希望が一回できてしまうから、なくなったときに余計に消耗する。
帰れないことより、帰れると思ったあとの取り消しがしんどい
結局、会社を出たのはいつもより少しだけ早い程度で、全然“早く”ではなかった。
駅までの道は朝より風が冷たくて、昼のあの春っぽさはどこかへ消えていた。私は歩きながら、スーパーに寄る気力をなくして、コンビニでおにぎりとカップのお惣菜を買った。
店内の明るさって、たまにやけに現実的で、ちょっとだけさみしい。買うものを選んでいる自分が、「今日は丁寧に暮らす」はい、終了です、と言われたあとの自分に見えた。
家に着いて、バッグを床に置いて、上着も脱ぎきらないまま一度だけソファに座った。
ほんの五分だけ、のつもりでスマホを見たら、気づけば十五分くらい経っていて、ああ、こうやって今日も何となく終わるんだなと思った。
でもそのとき、少しだけ不思議なことがあった。私はふと、帰れなかったことそのものには、もうそこまで腹が立っていないことに気づいた。むしろ引っかかっていたのは、「早く帰れる」と聞いたあの瞬間から、私は自分の夜に期待しすぎていた、ということだった。
期待すること自体は悪くない。
ただ、私はそこで無意識に、“早く帰れる夜なら、ちゃんとした私になれる”と思っていたのかもしれない。
部屋を片づけて、自炊して、メッセージも返して、お風呂にも浸かって、できれば少し本も読んで、そういう全部をやれる自分を、短い自由時間に押し込もうとしていた。
だから、その夜が崩れたとき、失ったのは一時間じゃなくて、“理想の自分になれるチャンス”みたいに感じてしまっていた。
でも実際の私は、早く帰れたとしても、たぶんたまにはコンビニごはんを食べるし、ソファでだらっとスマホを見るし、気づけばお風呂が面倒になる日もある。
つまり、「早く帰れる」という言葉に乗せていた期待が、そもそも少し盛られていたのだ。
それに気づいた瞬間、なんだか少しだけ笑ってしまった。勝手に夢を見て、勝手にがっかりしている。誰のせいとも言い切れない、その感じが、妙に自分らしかった。
ちゃんと暮らしたい気持ちは、たぶんずっと消えない
それでも、私はたぶん明日も「今日は早く帰れる」と言われたら、少しうれしくなると思う。
帰れないかもしれないと知っていても、また信じる。たぶん、懲りずに信じる。人っておもしろい。経験で学べることばかりじゃなくて、むしろ何度も同じ希望を持ってしまうことで、どうにかバランスを取っているのかもしれない。
今日の小さな気づきは、仕事に振り回されない方法を見つけた、みたいな立派なものではない。
ただ、自分がしんどい理由を、少しだけ言い当てられた気がした、というだけだ。
忙しいからつらい、ではなくて、暮らしを取り戻せると思ったあとに、それが遠のくのがつらい。
この違いって、ほんのわずかだけれど、私の中では意外と大きかった。理由が少し見えるだけで、疲れ方の輪郭が変わることがある。少なくとも、「私って要領が悪いのかな」とか「みんな普通にやれてるのに」とか、そういう雑なくくりで自分を責めずに済む。
だから今夜は、完璧に立て直すのはやめた。
おにぎりを食べて、洗い物はマグカップひとつだけにして、部屋の隅に積んだままの服は見なかったことにする。その代わり、ベランダのカーテンだけ開けて、外の空気を少し入れた。夜の匂いが入ってきて、それだけで、今日の全部がダメだったわけじゃないと思えた。
派手な回復じゃなくて、これくらいの小ささでいい日もある。
大人になると、「早く帰れたら幸せ」みたいな、ずいぶん地味な願いが本気になる。
しかもその願いは、誰かに話すほどのことでもないから、ひとりで勝手に膨らませて、ひとりでしぼませるしかない。そういう静かな落差に、毎日少しずつ体力を持っていかれている人、たぶん私だけじゃないと思う。
今日あなたが信用した言葉は、ちゃんと夜まで有効でしたか。
それとも私みたいに、また少しだけ、先に期待したぶんだけ疲れてしまいましたか。





