手土産選びがちょっと苦手な夜に気づいた、好きなものばかり選んでしまう理由
雨が上がったあとの夕方って、どうしてあんなに生活の輪郭がくっきり見えるんだろうと思う。
駅前のタイルはまだ少し濡れていて、いつもより白っぽく光っていた。仕事終わりの人たちが足早に通り過ぎるなか、私は改札を出てすぐの小さな焼き菓子屋さんの前で、ほんの数秒だけ立ち止まった。ガラス越しに並ぶフィナンシェとクッキーは、どれも似ているようで少しずつ違っていて、見ているだけで気持ちがゆるむ。バターの甘い匂いが、外までふわっと漏れていた。
今日は、友達の家に少しだけ顔を出す約束があった。
「ちょっとだけね」と言いながら会う日に限って、私はなぜか手ぶらで行けない。別に、ちゃんとした訪問でもないし、何かを期待されているわけでもないのに、何も持たずに行くのが少しそわそわする。だから私は、だいたいいつも何かしらの“ちょっとした手土産”を買う。
でも、その日ショーケースを見ながら、ふと変なことに気づいた。
あれ、私が今まで選んできた手土産って、思い返せばほとんど全部、自分の好きなものじゃない? って。
手土産を選んでいるつもりで、自分の機嫌を取っていたのかもしれない
友達に渡すためのものなのに、最初に心が動くのはいつも自分だった。
レモンの香りがする焼き菓子。小さめの箱。くすんだ水色の包装紙。甘すぎない見た目。派手じゃないけど、ちゃんとかわいいもの。
「これ、好きそう」じゃなくて、
「これ、私が好き」から入っていることが多い。
別に大したことじゃないのに、そのことに気づいた瞬間、なんだか少しだけ恥ずかしくなった。
手土産ってもっと、“相手のため”のきれいな行為だと思っていたから。相手の好みを想像して、気を遣って、場に合うものを選ぶ。そういう丁寧さの象徴みたいな顔をして、自分はけっこう自分の趣味を通していたんだな、と思った。
もちろん、手土産にはいちおう無難な正解みたいなものもあるらしい。日持ちがして、個包装で、相手の負担になりにくいものが選ばれやすく、訪問先や職場向けなら配りやすさも大事にされるという。そういう“ちゃんとした基準”はたしかにあるし、私も頭では知っている。
でも実際の私は、その基準の上に、かなりしっかり自分の好みをのせていた。
相手のために選んでいるふりをしながら、自分がもらったらうれしいもの、自分の気分が上がる見た目、自分が“感じのいい人”に見えそうなものを選んでいた。
なんか、いやらしいな。
そう思った。
でも同時に、少しだけ安心もした。
だって、何かを選ぶときに自分の好きが混ざるのって、たぶんすごく普通のことだ。
好みを通さないと、気持ちって案外こもらない。何を選べばいいかわからないとき、人は自分の好きなものを手がかりにする。相手を雑に見ているわけじゃなくて、自分の“これならうれしい”を差し出しているだけなのかもしれない。そう考えたら、少しだけ呼吸がしやすくなった。
相手のため、だけじゃない贈りもの
お店の棚の前で、私は箱を手に取って、戻して、また手に取った。
レモンケーキの詰め合わせ。春っぽくてかわいい。でも友達はたしか、チョコのほうが好きだった気がする。
じゃあチョコ系にする?
でも今日の気分はどう考えてもレモンだった。
そこで私は、ちょっと立ち尽くした。
この迷い方、たぶん手土産の話だけじゃない。
私、誰かのために何かするとき、いつも少しだけ自分を混ぜてしまう。LINEの返事の言い回しとか、プレゼントの選び方とか、カフェの店選びとか。相手に合わせているつもりで、最後にほんの少し、自分の好きな温度に寄せてしまう。
それって、思いやりが足りないんだろうか。
それとも、完全に相手だけに寄せるほうが、むしろ不自然なんだろうか。
たぶん私はずっと、“ちゃんとしている人”でいたいから、贈りものにさえ正しさを求めていた。
相手に負担がなくて、センスがよくて、失礼がなくて、気が利いて見えて。
そういう条件を全部クリアしたい。
でも、その条件の奥にはいつも、「変に思われたくない」がいる。
今日の私が誰にも言わなかった本音は、たぶんこれだ。
手土産を選ぶ時間って、相手のためのようでいて、実は“自分がどう見られたいか”まで一緒に選んでしまっている。
だから疲れるし、だから妙に真剣になる。
友達の家に向かう途中、紙袋を持った自分の手を見ながら、少し笑ってしまった。
ここまで考えてる人、そんなにいない気もする。
でも、こういうところで無駄に心を使ってしまうのが、私なんだと思う。
それでも、自分の好きなものを渡したい日がある
結局その日は、レモンのお菓子を買った。
友達の好みを無視したわけじゃない。たぶん彼女もこういうのは嫌いじゃないと思う。だけど、100%相手基準ではなかった。少なくとも、私の“今日これがかわいいと思った”はしっかり入っていた。
友達の部屋で、「これ、よかったら」と渡したとき、彼女はすごく普通に「わ、うれしい」と笑ってくれた。
拍子抜けするくらい、普通だった。
深読みしていたのはたぶん私だけで、贈られる側って、そこまで厳密に採点していないのかもしれない。
お茶を入れてもらって、テーブルの端にその箱が置かれているのを見たとき、少しだけ不思議な気持ちになった。
私が好きで選んだものが、相手の部屋に自然に置かれている。
それって、押しつけとは違うけれど、ちょっとだけ自分の世界を渡している感じがした。
手土産って、相手のためだけのものだと思っていたけれど、もしかしたらそうじゃないのかもしれない。
“これをいいと思う私”ごと、そっと差し出しているのかもしれない。
だから、あとで思い返したときに自分の好きなものばかり並ぶのは、当然といえば当然だった。
むしろ少し安心した。
私、ちゃんと自分の感覚を使って誰かに何かを渡していたんだなと思ったから。
空気を読んで、無難で、失敗しないものばかりを選んでいたわけじゃなかった。
ちゃんと、自分の“好き”を通っていた。
それがすごく美しいことだ、とはまだ思えない。
相変わらず少しだけ、自分本位かな、とも思う。
でも、全部を相手仕様にしないと優しさじゃない、みたいに考えていた頃よりは、少しだけラクだった。
わかる、こういうのあるよね、と思ってくれる人がいたらうれしい。
相手のために何かしているつもりなのに、よく見たらそこに自分がしっかりいる感じ。
きれいな善意だけじゃないから、少し言いづらい。
でも、たぶんみんな、そういう混ざり方をしながら人と関わっているんじゃないかなと思う。
帰り道、紙袋のなくなった手が妙に軽くて、でも気持ちは少しだけ残った。
次にまた手土産を選ぶときも、たぶん私は自分の好きなものに目がいく。
その癖はたぶん、すぐには直らない。
直す必要があるのかも、まだよくわからない。
誰かに渡すものの中に、自分の好きが少し混ざってしまうのは、ずるさなんだろうか。
それとも、それくらい曖昧なほうが、人の気持ちってほんとうなのかもしれない。





